Saturday, July 1, 2006

Moholy-Nagy László (László Moholy-Nagy)











Moholy-Nagy László (László Moholy-Nagy、モホリ=ナジ・ラースロー、モホリ=ナギ・ラースロー、ラースロー・モホリ=ナジ)
本名はWeisz László(ヴェイス・ラースロー)
1894年にハンガリーのバーチ・キシュクン県 (Bács-Kiskun megye) 南部にあるバヤ郡 (bajai járás) のバーチボルショード村 (Bácsborsód község) 生まれ、1946年にアメリカのイリノイ州 (Illinois) シカゴ (Chicago) で亡くなった。
ユダヤ系ハンガリー人の写真家、画家、タイポグラファー、美術教育家。


ヴェイス・ラースローがまだ2歳の頃、父親がアメリカに渡ったため、以後、叔父が父親役を務めた。
チョングラード県 (Csongrád megye) の県都セゲド (Szeged) にあるギムナジウムで学校教育を受け、1913年、ブダペストにあるハンガリー王立大学 (Magyar Királyi Egyetem) に進み、法学を学んだ。
1914年、第一次世界大戦で徴兵され砲兵部隊の一員としてロシアの戦線に配属された。
1915年、戦場で負傷し軍病院で療養中に気晴らしに鉛筆とクレヨンで絵を描き始め、自身の絵の才能を自覚。
1916年の終わりに再び戦場で負傷、1917年からまた病院に逆戻りとなり、療養中、再びデッサンに取り組むとともに水彩で肖像画を描いたという。
また、この頃にハンガリーの前衛美術雑誌 『MA』 を読むようになり、キュビスムや表現主義や未来派のことを知る。

1918年、戦争が終わると除隊し、退学に復学するが、画家になるという新たな夢を抱くようになっていて、翌1919年には 『MA』 誌を発行している芸術家集団 『MA』 とコンタクトを取り、『MA』 の主宰者カッシャーク・ラヨシュ (Kassák Lajos) ――労働者階級の出身で、詩人として出発し、小説家、画家、エッセイスト、編集者、理論家、芸術家集団 『MA』 の主宰者としてハンガリーで活動し、現在ではハンガリー前衛芸術の父のひとりとして知られている――と出会い、その理念に共感して 『MA』 に参加、モホリ=ナジはキュビスム、表現主義、未来派、そしてロシア構成主義などを吸収しながら充実した日々を送っていたが、この時期は、ハンガリー共産主義の指導者であったクン・ベーラ (Kun Béla) らがカーロイ・ミハーイ政権を革命で政権の座から引きずり下ろし、新たな体制を打ち立てるという大きな変革の時期と重なっていた。
当初、『MA』 のメンバーらもこの革命に賛同し参加していたのだが、保守的な国民の支持を得られず内政は不安定となってしまい、ラヨシュや他の 『MA』 のメンバーは政治運動に挫折、ハンガリーを離れてオーストリアのヴィーンへ逃れてしまった。
しばらくハンガリーに留まっていたモホリ=ナジも革命後の共産主義体制のありさまに幻滅を覚え、1919年11月、ラヨシュを追ってヴィーンに向かい、亡命生活に入ることとなったが、このめまぐるしい環境の変化の中でも、様々な芸術運動やスタイルから多くを学び取り、1920年頃になると抽象絵画へと志向がほぼ定まっていた。

1921年、年明け早々、モホリ=ナジは活動の拠点をドイツのベルリンに移したが、その頃はベルリン・ダダが燃え尽きようとしていた時期で、そういった中、そのベルリン・ダダに参加を拒まれしかしその周辺にいた芸術家で画家のクルト・シュヴィッタース (Kurt Schwitters) と知り合い、シュヴィッタースの勧めもあってコラージュやタイポグラフィの制作にも手を染める。
また、記者や編集者として働いていたルチア・シュルツ (Lucia Schulz) と出会ったのもこの年で、翌年の1922年1月18日、ルチア・シュルツの27回目の誕生日に二人は結婚。
新婚生活をスタートさせた1922年、ベルリンでの生活にも慣れたためか、モホリ=ナジの活動は著しく活発になる。
例えば、『MA』、『デ・スティル』、『カイエ・ダール』 といった雑誌への積極的な寄稿、カッシャークとともに編集にも携わった 『新しい芸術家の本 (Új művészek könyve, Buch neuer Künstler)』 の発行といった執筆や編集の活動。
チューリッヒでダダ運動に感化されダダイストとなったクリスティアン・シャート (Christian Schad) は、1918年にカメラを使用せず、印画紙に物を置いて感光させ、その像を写し出す写真の制作方法を発見し、「シャートグラフ (Schadograph、シャードグラフ)」 と命名。
少し遅れてマン・レイ (Man Ray) が暗室での作業中に偶然同じような写真の制作方法の実験を見付けて 「レイヨグラム (Rayograph, Rayographie)」 と命名し、その後、ベルリンでダダ運動に感化されモホリ=ナジが1922年から似たような写真制作法の実験に取り組み始め、「フォトグラム (Fotogramm, Photogramm, Photogram)」 と命名した。
カメラを必要としない写真について、発見者や実験者が 「シャートグラフ」、「レイヨグラム」、「フォトグラム」 と銘々が勝手に命名した訳だが、現在では 「フォトグラム」 が総称となっている。
モホリ=ナジは後にボーモンド・ニューホール (Beaumont Newhall) に宛てた手紙で 「フォトグラム」 と命名したことについて、

フォトグラムは "シャードグラフ" よりもいい命名だと思う。というのも、少なくとも私の実験では、固形の透けてみえる半透明の物体の影だけでなく、実際には光の効果そのもの、すなわちレンズ、液体、クリスタルガラスなどを使ったり、使おうとしたのだから
- モホリ=ナジ・ラースローの手紙
(ドーン・エイズ 『フォトモンタージュ』 より)

と語っていて、「フォトグラム」 という名称が普及したのは、様々な理由があるのだろうが、キュビスムや未来派やロシア構成主義から影響を受けて画家としての活動を本格化させたモホリ=ナジは、そういった潮流に対しては画家として反動的だったといってよいシャートに比べると、平面空間に現れる像と像の関係性に意識的であった分、作り出す作品に説得力があったということも普及した理由の一つとしてあったのではないかと思う。
オット・シュティルツァーは、バウハウス叢書の一冊として出版されたモホリ=ナジの 『絵画・写真・映画』 が新バウハウス叢書の一冊として再刊される際に付したあとがき 「モホリ=ナギと彼のヴィジョン」 で、「カメラなしの写真、フォトグラム」 について、

クリスティアン・シャドとマン・レイのフォトグラムがいくらか早い時期に芸術的に実験されたかもしれないが――それを実践的にだけでなく理論的に、それどころか哲学的に研究したのはモホリであった。彼が魅惑されたのは、フォトグラムにより産出される謎めいた非遠近法的な形象空間である。いまや 〈顔料の代わりに光〉 だけではなく、〈光を通しての空間〉 と 〈空間 - 時間 - 連続〉 (空 時 間) が肝要である。「フォトグラムは空間関係の新しい可能性を理解させてくれる」 とモホリは後に 『運動のヴィジョン (Vision in Motion)』 のなかで書くことになる――というのはフォトグラムに現れるものは、まさしく種々の (計算しうる) 露出時間の効果と対象から光源の間隔の効果以外の何ものでもないのであって、これが 〈フォトグラムは文字どおり空間 - 時間 - 連続である〉 の意味である。
- オット・シュティルツァー 「モホリ=ナギと彼のヴィジョン」
(ラースロー・モホリ=ナギ 『絵画・写真・映画』 より)

と語っているので、私の印象もそんなに外れてはいないのではないだろうか。

クリスティアン・シャートやモホリ=ナジが 「シャートグラフ」 や 「フォトグラム」 について詳しく語っている文献が存在しているかどうかは知らないが、あったとしても私の手元にはないのだけど、マン・レイの 「レイヨグラム」 が偶然出来上がった時のエピソードが自伝的著書 『セルフポートレイト (Self portrait)』 の中に書き記されているので、当時、カメラなしで制作できる写真が、それを制作する側にどう受け止められていたのか、参考までに見ておこう。

それはパリについて間もないマン・レイが伝説的なファッションデザイナー、ポール・ポワレ (Paul Poiret) から仕事をもらおうとポワレの店を訪問したところから始まる。
ポワレの醸し出す雰囲気に怖気づきながらもなんとかファッション・フォトの仕事をや暗室代わりに使用できる部屋の利用をとりつけたマン・レイは、ポワレの店に集う近寄りがたい空気を持ったモデルたちの中にひとり、他のモデルとは違った雰囲気のモデルに気付き、英語で話しかけたところ、マン・レイと同じくアメリカ人で、ニューヨークから歌の勉強に来ていて、今はモデルで生計を立てているという。
自分はポワレから仕事を請け負ったところでその準備で一週間ほどかかる、ついてはその一週間後に自分のモデルを頼めないかとお願いしてみると、そのニューヨーク出身のモデルは快く承知してくれ、一週間後、無事そのモデルを撮影することが出来た。
出来上がった写真をポワレの店に持参した折、再び件のモデルを撮影する機会に恵まれて撮影、その日の晩に撮影した乾板を現像し、翌晩紙焼していた時に事件は起きた。

液槽皿や壜入りの科学溶液以外には、ガラス製の目盛付容器や温度計、印画紙の箱ひとつがあるだけで、わが実験設備は無きに等しい程度のものだった。さいわい、大きな乾板からの密着焼付をつくるだけでよかった。やりかたは、小さな角燈の赤い光をたよりに卓上に置いた感光紙にガラス・ネガを重ねて、天井にぶらさがっている電球のスウィッチをひねること数秒、それから紙焼を現像するだけだった。わたしが 「レイヨグラム」 の方法、つまり写真機なしにつくられる写真の方法を偶然見付けたのは、これらの焼付をつくっている最中だった。最初に何枚かまとめて露光し、そのあとで一緒に現像することにしていたのだったが、露光済のものにまじってまだ露光させていない印画紙が一枚あったらしく、それを現像液の皿に入れたのだった。何かの像が浮びあがってくるのを数分待ったが甲斐なく、印画紙を無駄にしたと後悔しながら、液皿のなかの小さなガラスの漏斗や目盛付容器や温度計を、濡れた印画紙のうえに機械的に置いた。すると眼前でひとつの像が形成されはじめた。それはまともな写真におけるような物体の単純なシルエットではまったくなくて、形が歪み、印画紙と多かれ少なかれ接触しているガラスのために光が屈折し、黒い地 (光が直接当たった部分) から浮き出しているものだった。子供の頃、焼付機にためし焼用の紙を入れてそこに羊歯の葉を置き、陽光に当てると葉の白い陰画ができたことを思い出した。それと同じ発想だったわけだが、今度のはそれに三次元的な質と明暗の階調が付け加わっていた。ポワレのためのもっと重要な仕事をそっちのけにして、更に何枚も焼いてみて、貴重な印画紙を使い果たしてしまった。ホテルの部屋の鍵、ハンカチ、鉛筆数本、刷毛、蝋燭、紐など、手あたり次第どんなものでも使ってみた。わたしは興奮して無上のよろこびを感じながら更に何枚も焼付をつくってみた。ものは溶液につける必要はなく、まず濡れていない印画紙のうえに置いて、ネガ・フィルムでやる場合と同じように数秒間光に当てればよかった。翌朝、壁の上にこの 「レイヨグラム」 (そう呼ぶことに決めたので) を数枚ピンでとめて、成果を検討してみると、びっくりするほど斬新で神秘的なものにみえた。
- マン・レイ 『セルフポートレイト』 より

数十年後に当時のことを回想しているにもかかわらず、興奮したマン・レイの姿が伝わってくる。
この日の午後、トリスタン・ツァラ (Tristan Tzara) がマン・レイのもとを訪れて、出来上がったばかりの 「レイヨグラム」 を見ているのだが、その時ツァラはこう感想を述べたという。

これは生粋のダダの創造物だ。それに何年かまえに初期のダダイスト、クリスティアン・シャートがつくった類似の試みのもの (白黒の、平面的な質感に依る写真) よりもはるかに優れている。
- トリスタン・ツァラ
(マン・レイ 『セルフポートレイト』 より)

そして晩に改めてマン・レイのもとを訪ね、ふたりで 「レイヨグラム」 を数点制作し、満足のいく成果を得られたそうなのだが、二人共同での実験は、マン・レイがその成果を横取りされるのではないかと疑い、更にツァラの発想に影響を受けて自分の発想を制限されたくないと思い抱いたことを、それらを口に出さずともツァラが敏感にそれを感じ取ったことから、続けられることはなかった。
ポール・ポワレのために撮影した写真の制作過程で発見された 「レイヨグラム」 にポワレが興味を持ちマン・レイの才能を高く買ってくれることを期待して、ポワレに渡すファッション・フォトの中に数点紛れ込ませておいたところ、ポワレの反応はおおよそ次のようなものだったという。
ファッション・フォトについて君はファッションフォトグラファとしての才能があると褒め、「レイヨグラム」 については最初何が写っているのか分からず、これは?と問い質し、マン・レイからその説明を聞くと、なるほど面白い、君の作品はなかなかのものだ、いつでも好きな時にここで写真を撮るといい、と。
また、この店でのファッション・フォトの仕事はある種の特典といってよいものと考えているポワレは、普段、フォトグラファに金を払ったりはしないのだが、マン・レイが仕事料のことを口にすると、新しい試みは私も好きですので、「レイヨグラム」 に対してということで、と数百フランを支払った。
またある時、マン・レイが持参したヌード写真を見せると、ポワレは、非常ににいいものだと褒めた後、

ヌードというのは常に変わらず流行しているものだ、透明な衣装をまとえない女性というのはかわいそうなものだ。
- ポール・ポワレ
(マン・レイ 『セルフポートレイト』 より)

と言ったそうで、マン・レイは後年、雑誌の依頼で薄手の衣類の撮影をしている時にこの発言を思い出し、性的魅力を出来るかぎり写真取り込むべきなのだと心に刻んだと述べている。
以上は、『セルフポートレイト』 の 「パリ」 という章の 「ポール・ポワレ――ついにつくられずじまいの肖像」 という項の内容の一部をまとめたもので、興味深いエピソードや面白いエピソードのほとんどをカットしてしまったが、元の項は面白いので、いやこの項だけでなくこの本自体が非常に面白いので、もし興味を持ったという方がおられたら、是非、この 『セルフポートレイト』 を手に取り読んで頂きたい。

「フォトグラム」 についはサクサクまとめるつもりが、寄り道をして長くなってしまったので、この辺りでモホリ=ナジの話に戻るとしよう。

1922年の暮、モホリ=ナジはベルリンのギャラリー、『シュトゥルム (Der Sturm)』 で初の個展を開催し、ギャラリーを訪れたヴァルター・グロピウス (Walter Gropius) からバウハウスの教師を依頼され、承諾。
1923年4月、ヴァイマールのバウハウスに教師として赴任。
グロピウスと衝突し辞職したヨハネス・イッテン (Johannes Itten) の後任として二人の芸術家が教師として採用された。
その一人がモホリ=ナジで、もう一人はバウハウスに学生として在籍していたヨーゼフ・アルバース (Josef Albers) であった。
マグダレーナ・ドロステ (Magdalena Droste) の 『バウハウス (bauhaus)』 によると、モホリ=ナジはバウハウス内で、

グロピウスの新しい傾向を全面的に支持し、やがて彼の最も重要な協力者と見なされるようになった芸術家である。当時28歳の彼は1920年からドイツで生活しており、ベルリンの画廊 『シュトゥルム』 で開いた最初の個展で名を知られるようになっていた。モホリは予備課程と金属工房の新しい主任として採用されたのだが、その熱烈さと活気とでバウハウス全体に豊かな刺激をもたらしたのである。間もなく彼は最初の近代的な印刷を取り入れたが、これは外部に対して見せるバウハウスの顔を全く変えたのであった。また内部では、意識的に機械と取り組むことを勧めた。「モホリは職人マイスターがより包括的に、より生き生きと活動すること、工房を出た人々が意識的に機械を取り入れることで、より大きな、より幅広い能力を身につけることを望んでいる。」
モホリほど批評の矢面に立たされたマイスターはなかった。「まるで夢中になったたくましい犬のようにモホリはバウハウスの輪の中に飛び込み、過つことのない本能で、いまだに伝統の影を引きずっている未解決の問題を捜し当て、それと取り組むのでした。・・・これほど一つのことに没頭する人間は、他にいませんでした」 というわけである。
 しかしクレーは彼のを 「型にはまった知性」 だと批判し、後のバウハウス学長ハンネス・マイヤーは、「絵筆を持ったジャーナリスト」 と評した。
- マグダレーナ・ドロステ 『バウハウス』 より

という存在であったという。
ちなみに、イッテンの後任としてモホリ=ナジとアルバースが教師として招聘された件について、ピーター・ゲイ (Peter Gay) の 『ワイマール文化 (Weimar Culture)』 では次のように触れられている。

もちろん、内部に緊張があるのは避け難いことであった。すべての重要な基礎課程の指導を引き受けてもらうためにグロピウスがウィーンから招聘した画家で教育家のヨハンネス・イッテンは、もっぱら美学に情熱を注いで、グロピウスが正しいし可能だと考えたほどには、実用面での成果に関心を示さなかった。イッテンは一九二三年に辞職し、基礎課程はヨーゼフ・アルバースとラズロ・モホリ=ナジという二人の偉大な教師に引き継がれた。しかし、時の経過と、自由な議論に寛容な気心の知れた雰囲気とによって、そういった緊張も和らいだ。
- ピーター・ゲイ 『ワイマール文化』 より

モホリ=ナジが主任を務めた金属工房ではどういった教育が行われていたのか、モホリ=ナジはそこでどういう役割を果たしたのか、先程も引用したマグダレーナ・ドロステの 『バウハウス』 にコンパクトにまとめてあるので引用してみたい。

金属工房ではようやく1920年になって、学生が仕事を請け負うことができるようになった。ここは1922年の末までイッテンが芸術指導を受け持っていたのだが、彼はグロピウスが実施した請け負い作業に抵抗して辞任したのであった。
 最初の年の1920年には、ここは技術マイスターがまったくいなかった。また1921年に採用されたアルフレート・コプカ Alfred Kopka は、無能だったためにほどなく解雇された。1922年の春にその後任として貴金属細工師のクリスティアン・デル Christian Dell が入った。イッテンの指導のもとに作られたのは、主として日常使用する容器類だった。例えばポット、サモワール、蝋燭立て、ティーポット、缶や箱類である。 これらの容器は円形や球形を基本にしているものが多く、なかには黄金分割の法則に従っているものすら見受けられた。それ以外の金属器は、ユーゲントシュティールの名残を思わせる生物の器官のような、なよゃかな形をしていた。
 1923年の夏学期にラスロ・モホリ=ナギがヨハネス・イッテンの後任に就くと、ほどなくスタイルや課題傾向が変化した。モホリは新しい素材に対してこだわりを持たなかった。そうして元来金属工房などでは用のないはずのガラスやプレキシガラスを用いて実験したりした。素材は工場で買うのである。モホリは特異な金属の組み合わせで学生たちを魅了したり、それまで卑金属とされていたものを用いるよう提案したりした。例えば銀の代わりに安価な洋銀を取り入れたりしたのである。
 1923年に始まったランプをテーマにした製作を見ると、早くも工房の方針の変更がうかがえる。ランプは伝統的には貴金属工芸の範疇には入っていなかったのである。「ムッヘやモホリと協力して (アム・ホルンの) 家の照明をつくった。・・・フロアスタンドはモホリの提言にしたがって、できるかぎり統一した (ガラス、金属)」 と工房リポートに記されている。ここで有名なバウハウスランプが生まれたのである。
- マグダレーナ・ドロステ 『バウハウス』 より

バウハウスにおけるモホリ=ナジ、教育者としてのモホリ=ナジの姿がどういったものであったのか、作品を見ているだけではなかなかその辺りのことまで知る機会がないのだが、上の引用からはそういった側面の一端を窺い知ることができ、更に、後にアメリカでニュー・バウハウスの立ち上げに関わり、後進の育成に情熱を傾けることになるモホリ=ナジがどこから来たのかということもここから読み取れるのではないだろうか。

教育以外の活動としては、《バウハウス叢書》 に触れないわけにいかないだろう。
1923年12月18日付けのアレクサンドル・ロドチェンコ宛の書簡において、構成主義の紹介を目的にした小冊子を30巻刊行する構想を語っており、その後グロピウスも参加して企画を練る段階でその構想は多様な専門分野における芸術的、科学的、技術的諸問題を各分野の専門家が論じる叢書へと広がっていったらしい。
モホリ=ナジは1924年の夏を 《バウハウス叢書》 に含まれる予定の自著のまとめに当てている。

この叢書の構想が練られている間にドイツ国内の政治の世界進行していた変化がいよいよ表面化し、バウハウスの存続問題へと発展していた。

1924年2月10日、テューリンゲン地方選挙でドイツ人民党 (Deutsche Volkspartei, DVP) が勝利し、予てからバウハウスの教育方針に左翼的傾向を嗅ぎ取っていたドイツ人民党は、早速バウハウスを閉鎖に追い込む方針を明らかにしたが、即刻閉鎖は問題ありとのことから、まずグロピウスに解雇通告を突きつけ、次いで秋の予算編成で来年度バウハウスに割かれる予算を現在の半分に減額、バウハウスの運営が困難となるように仕向けたのである。
グロピウスは何とかこの困難を切り抜けようと様々な手を講じるも、結局、バウハウスのヴァイマールからの退去、デッサウへの移転を決定。

1925年、バウハウスはデッサウへ移転を果たし、教育者、生徒はそちらへ移って新たなスタートを切った。
モホリ=ナジは、後に建築史家、都市史家、建築評論家、美術評論家として有名になるスイス人、ジークフリード・ギーディオン (Sigfried Giedion) と知り合い、友人となる。
前年の夏にまとめた自著 『絵画・写真・映画 (Malerei, Fotografie, Film)』 を 《バウハウス叢書》 の第8巻として刊行。
《バウハウス叢書》 は当初の目標であった全50巻を刊行するには至らず、最終的に全14巻となったが、叢書全体のエディトリアルデザインはモホリ=ナジがほぼ一人で担当。
その統一感のある独特のセンスを持ったレイアウトや非対称なタイポグラフィは、21世紀になった我々の眼から見ても未だに魅力的であるのだから、1920年代当時は業界に大きな影響を与えるインパクトのある叢書だったのではないだろうか。
例えば日本においては、建築批評家、美術批評家の板垣鷹穂が、当時、『絵画・写真・映画』 収録の 「大都市のダイナミズム」 のエディトリアルデザインをそのまま真似たりしている。
板垣鷹穂は中井正一と同じ時代に活動し、中井正一と同じく 「機械美」 についても論じた批評家であるが、ここではそういった面には立ち入らず、自著のエディトリアルデザインにこだわりを持っていた板垣が、同時代の出版メディアついて――現在と違ってオンタイムで情報が行き来する時代ではないので欧米の潮流とは多少のタイムラグがあるが――どのように捉えていたのか、松畑強の 『建築とリアル』 に収録されている 「機械美と古典主義――板垣鷹穂試論」 から抜き出してみたい。

一方で日本の建築雑誌を暼見していくと、昭和七年前後に大きな変化があることに容易に気付きうるだろう。それまで右開き・縦組みでなおかつ同人誌的雰囲気のあったものが、左開き・横組みの体裁となり、グラビアをふんだんに使い始めているのである。新興建築派の雑誌 『国際建築』 や 『新建築』 はこの時期グラビアページを大幅に増やし、これにならうかのように建築学会の機関紙 『建築雑誌』 もその体裁を刷新していく。板垣自身にこの時期の急激な出版メディアの変化について語ってもらえば、「かかる写真集の新機運と共に、挿絵を必要とする一般の定期刊行物も、新しい写真の撮影技術と編集法と感覚とを、極めて敏感に摂取し始めた。建築と工芸に関する現代芸術関係の雑誌はいうまでもない」 と述べ、その条件として 「写真の撮影やグラピュールの製版に関する技術上の発達が、前提されていなければならない。そしてその上に、映画的訓練を経た現代の読者層にアッピールし得るだけの、新しい感覚を示すものでなければならない」 としている。
- 松畑強 「機械美と古典主義――板垣鷹穂試論」 (『建築とリアル』 収録) より

時代の変化とともに洗練されていく読者のニーズに応えられる本作りを心掛けるべきだという板垣の主張は、そのまま板垣が当時世に送り出した自著や雑誌に発表したエディトリアルにも反映されていて、そのデザインを見るとそれらを手元に置きたくなってしまうのだが、如何せん、そういったものにはそれ相応かそれ以上のプレミアが付いていて気楽に手を出すことができないのが残念だ。
一般雑誌や建築雑誌のグラフ誌化という流れの中で、モンタージュ技法やエディトリアルデザインの洗練といったものが最大限に活用されたのは、第二次世界大戦開戦間際に創刊された対外宣伝誌 『FRONT』 においてだろう。
多川精一の『戦争のグラフィズム 『FRONT』 を創った人々』 によると、『FRONT』 は元々は対ソ戦略の一環として構想されたにもかかわらずソ連が第一次五か年計画の成果を国外に宣伝することを目的とした "USSR in construction" 誌が構想の元となっているという捩じれた起源を持っている。
『FRONT』 は東方社という設立されたばかりの出版社から出版されていたのだが、この会社の理事のひとりとして林達夫が名を連ねていた。
戦後、林達夫は東方社並びに 『FRONT』 について、黙して語らなかったという。

と、話が逸れてきたのでバイオグラフィの記述の続きに軌道修正。

1928年の初め、ヴァルター・グロピウスはバウハウス学長を辞することを決め、後任の学長にスイス出身の建築家、ハンネス・マイヤーを推薦し、バウハウスを去り、それに合わせ、ベルベルト・バイヤー (Herbert Bayer)、マルセル・ブロイヤー (Marcel Breuer)、そしてモホリ=ナジがバウハウスを去った。

モホリ=ナジはバウハウスに勤める以前に拠点としていたベルリンに戻ると、デザイン事務所を設立。
グラフィックデザイナーとしても活動し、見本市などの展示デザインをはじめ、ポスターや宣伝パンフレットのデザインも手がけた。
また、舞台装置作家として活動を開始し、1933年までに 「ホフマン物語」、「フィガロの結婚」、「ベルリンの商人」、「マダム・バタフライ」 といった舞台劇の舞台製作に携わった。
1929年、ルチア・モホリ=ナジと離婚。
バウハウス時代のモホリ=ナジの活動のまとめの中で触れる機会がなかったが、ルチアもバウハウスで写真家として活動をしており、素晴らしい作品を残している。
この頃、モホリ=ナジは友人のジークフリート・ギーディオンと共に 『写真と絵画 (Film und Foto)』 展のキュレーターを務め、新即物主義 (Neue Sachlichkeit、ノイエ・ザッハリッヒカイト) の影響を受けたノイエ・フォト (Neue Foto、ドイツ新興写真) 写真家たちの動向を集大成してみせた (この写真展は1931年に日本でも紹介され、その影響は関西を中心に発展――例えば、小石清の1933年に刊行された写真集 『初夏神経』 など、様々な写真表現の分野に拡散していくことになる)。
モホリ=ナジはバウハウス時代には予算の関係で企画止まりに終わっていた実験映画の制作に取り組み始めた。
前年に去ったバウハウスから 《バウハウス叢書》 の最終巻となる自著 『材料から建築へ (Von Material zu Architektur)』 が刊行され、最終的に刊行された 《バウハウス叢書》 全14巻のラインナップは以下の通りとなった。

01 ヴァルター・グロピウス 『国際建築』
02 バウル・クレー 『教育スケッチブック』
03 アドルフ・マイヤー 『バウハウスの実験住宅』
04 オスカー・シュレンマー 『バウハウスの舞台』
05 ピート・モンドリアン 『新しい造形―新造形主義』
06 テオ・ファン・ドゥースブルフ 『新しい造形芸術の基礎概念』
07 ヴァルター・グロピウス 『バウハウス工房の新製品』
08 ラースロ・モホリ=ナギ 『絵画・写真・映画』
09 ヴァシリー・カンディンスキー 『点と線から面へ』
10 J・J・P・アウト 『オランダの建築』
11 カジミール・マレーヴィチ 『無対象の世界』
12 ヴァルター・グロピウス 『デッサウのバウハウス建築』
13 アルベール・グレーズ 『キュービスム』
14 ラースロ・モホリ=ナギ 『材料から建築へ』

この 《バウハウス叢書》 は1990年代になって日本でも中央公論出版社から翻訳が出版され、現在でも入手できる。

1931年の冬、映画配給会社に勤めているシビル・ペーヒ (Sibyi Peech) と出会い、1932年に再婚し、1933年10月に長女ハトゥラ (Hattula) を授かる。
1934年、アムステルダムの印刷会社がカラー印刷と映画の実験ラボを提供すると打診してきたため、現地に単身赴任。

1934年、ヴァルター・グロピウスはドイツ国内の政治不安を避けるために夫婦でイギリスに渡って新しい生活を始め、翌1935年5月、モホリ=ナジはマルセル・ブロイヤーと共にクロピウスの後を追って渡英。
モホリ=ナジはロンドンでポール・ナッシュ (Paul Nash) が中心となって結成されたイギリスの前衛芸術家のグループ、ユニット・ワン (Unit One) に参加し、グループのメンバーであったバーバラ・ヘップワース (Barbara Hepworth)、ベン・ニコルソン (Ben Nicholson)、ヘンリー・ムーア (Henry Moore)、ジョン・パイパー (John Piper)、ジョン・グリアソン (John Grierson) といった芸術家たち、そして批評家のハーバート・リード (Herbert Read) と交友した。
イギリスは保守的な国民性であったが、バウハウスに精通した仲間の助けもあって、モホリ=ナジは商業美術、展示デザイン、インテリア・デザインの分野で活動し、まずまずの成功を収める。
1936年、3月に次女のクローディア (Claudia) 誕生。
ドキュメンタリー映画 『ロブスター (Lobsters)』 を制作。
他にもアレクサンダー・コルダ (Alexander Korda) 製作、ウィリアム・キャメロン・メンジース (William Cameron Menzies) 監督で、H・G・ウェルズが自ら脚本を手がけたSF映画 『来るべき世界 (Things To Come)』 に途中参加し、特殊効果の一部を担当した (どこのエフェクトを担当したのか、映画を観てもいまいち判然としないので、誰かにここだと指摘して頂きたい)。
夏はハンガリーの故郷で過ごし、秋になるとしばらく手にしていなかった筆をとり絵を描き始め、それがきっかけとなったのか、その後今度はプレクシガラスに三次元の絵を描き始めた。

1937年6月6日、米国のシカゴにあるシカゴ芸術産業協会 (Association of Arts and Industries, AAI) から電報が届き、仕事でパリ滞在中だったモホリ=ナジは、同地で、AAIでは 「『欧州で最上の産業芸術学校にのっとって組織した産業デザイン学校』 を設立する目的で,同校の校長にモホリ=ナジの招聘を計画し」 ているという電報の内容を知らされる。
モホリ=ナジの妻はこの招聘に対し、ファシズムの臭いを嗅ぎつけて懸念を示すが、英国での生活は仮のものだと考えていたモホリ=ナジにとってはまさに渡りに船ともいうべき内容で、すでにアメリカに渡りハーヴァード大学 (Harvard University) で教授として教壇に立っていたグロピウスから後押しされたこともあって、1937年7月に初渡米。
協議の結果、ニュー・バウハウス校 (The New Bauhaus Chicago) の校長を引き受ける。
しかし、AAI 企業家の私邸を訪れた際にその生活様式の中に現代芸術への嗜好を示すものが皆無であったことで、先行きに不安を感じ、妻への手紙の中でその胸中を吐露している。
モホリ=ナジの懸念をよそに、10月、ニュー・バウハウス校は無事開校にこぎつけた。
しかし、9ヶ月後、AAI はニュー・バウハウス校運営から撤退を決定し、モホリ=ナジへの給与未払いのまま、入学希望の第二期生約80人を受け入れることなしに、1938年9月、ニュー・バウハウス校は短い歴史を終えてしまったのである。
ニュー・バウハウス校は資金難で閉校となったといことくらいしか知識がなかったが、モホリ=ナジとニュー・バウハウス校の関係をまとめるにあたって参考にした上野継義の 「モホリ=ナジとニュー・バウハウス」 によると、モホリ=ナジとAAIの間に次の様な軋轢があったのだという。

 AAI 側の主張は口汚いののしりのようにも響くが,その概略はこうである。 モホリ=ナジは精神的な落ち着き,バランス感覚,外交手腕,忍耐力, 教育経験を欠いているだけでなく,他人のアイデアを盗用し,AAI の資料をほかの会社のために用いたり,資金を横流しし,つまるところ人も会社も うとんじ,学生間に不安や口論,騒動をまき起こし,学校の機能を損ない, AAI の社会的信用を台なしにした,という具合である。

 いささか滑稽であるが,かくしてニュー・バウハウスは短命に 終わってしまったのである。

 シカゴのニュー・バウハウスが ものの一年もたたないうちに破綻してしまった理由としては, 一般に財政問題が指摘されているが, シカゴ芸術産業協会 (AAI) のモホリ=ナジ批判をみると, 複雑な感情のもつれのあったことがうかがえる。 先にひいたモホリ=ナジの手紙から察すれば,AAI がヨーロッパにおける芸術の動きにまったくといっていいほど通じて いなかったということが,ことの底辺にあるような気がする。
- 上野継義 「モホリ=ナジとニュー・バウハウス」 より

このような事態に陥ったにもかかわらず、モホリ=ナジは自身の理想とする学校教育の実現を目指し、シカゴで奮闘していくことになる。
ニュー・バウハウス校閉校に伴い職を失った教師たちに、無給で一年教鞭を執って欲しいと依頼。
1939年2月、校名を 「シカゴ・デザイン学校 (School of Design Chicago (Chicago School of Design))」 に改め再出発を果たしたが、生徒数は18人だったという。
1941年、がはじまると教師や生徒が軍に入隊し、かなり厳しい運営を余儀なくされる。
1942年6月、「シカゴ・デザイン学校」 としては最初の卒業生を7人送り出す。
1944年春、美術学校教育から大学教育への規模の拡大に伴い校名を 「シカゴ・デザイン研究所 (The Institute of Design (Chicago Institute of Design))」 と改名。
1945年夏、体調を崩す。
11月に倒れ、白血病と診断される。
皮肉なことにこの頃から第二次世界大戦終結に伴って 「シカゴ・デザイン学校」 は学生が増加していく。
1946年、「シカゴ・デザイン学校」 の新校舎として旧シカゴ歴史協会 (Chicago Historical Society) の建物を購入し、移転。
アーサー・シーゲル (Arthur Siegel) とハリー・キャラハン (Harry Callahan) を招聘。
11月24日、白血病にて死去。



フェルナン・レジェ (Fernand Léger) についてのエントリでコーリン・ロウ (Colin Rowe) とロバート・スラツキイ (Robert Slutzky) の 「透明性 ――虚と実 (Transparency: Literal and Phenomenal)」 という論文についてまとめたが、モホリ=ナジと関わりがある部分についてはモホリ=ナジのエントリでと端折ったところがあったので、そういった部分を含め、改めて 「透明性」 についてまとめてみたい。

コーリン・ロウとロバート・スラツキイは 「透明性 ――虚と実」 を "Transparency" と "Transparent" の二つの単語の辞典上の定義を引用することから始め、現代建築を語る際に 「同時性」、「相互貫入」、「重ね合せ」、「両面的価値」、「時間-空間」、「透明性」 といった言葉を使用する時、その言葉の意味するところを理解していると思っているが、果たしてそうなのだろうか?と問い、その後、「透明性」 にまとわりつく曖昧な部分を少しずつ剥ぎ取っていく。
「透明性」 というと、我々のよく知る物理的透明性や明瞭や明晰の類語としての 「透明」 や人の清廉潔白な性格などを表現する場合に比喩的に使用される 「透明」 とをまず思い浮かべるが、ハンガリー出身で、モホリ=ナジと共にアメリカに渡ったデザイナーで美学者のジョージ・ケペッシュ (Gyorgy Kepes) は著書 "Language of Vision" の中で、そういった 「透明性」 とは異なる 「透明性」 について論じているという。

二つまたはそれ以上の像が重なり合い、その各々が共通部分を譲らないとする。そうすると見る人は空間の奥行きの食違いに遭遇することになる。この矛盾を解消するために見る人はもう一つの視覚上の特性の存在を想定しなければならない。像には透明性が賦与されるのである。すなわち像は互いに視覚上の矛盾をきたすことなく相互に貫入することができるのである。しかし、透明性は単なる視覚上の特性以上のもの、更に広範な空間秩序を意味しているのだ。透明性とは空間的に異次元に存在するものが同時に知覚できることをいうのである。空間は単に後退するだけではなく絶えず前後に揺れ動いているのである。透明な像の位置は、近くにあるかと思えば遠くにも見えるといった多義性を秘めているのである。
- ジョージ・ケペッシュ "Language of Vision"
(コーリン・ロウ 「透明性 ――虚と実」 (『マニエリスムと近代建築』 収録) より)

確かにここで語られている 「透明性」 は我々がよく知っている一般的な意味での 「透明性」 とは異なったもので、そういったものの存在を指摘されると、その存在について感じ取れるような、以前からそれとなく知っていたような存在として意識される。
ケペッシュの言うこの 「透明性」 については、友人であるモホリ=ナジも 『運動のヴィジョン (Vision in Motion)』 の中で言及しており、「透明性 ――虚と実」 で次のように纏められている。

「透明なセロファン紙」、「透明なプラスティック」、「透明性と動く光」、「ルーベンスの絵画に見られる輝く透明な影」 などに繰り返し言及しているが、注意深くこの本を読めば、モホリ-ナギはこのような字義上の透明性を、しばしば比喩的に用いていることが分かる。形態の重ね合せについてモホリ-ナギは 「空間と時間の固定化を脱却したものである」 と説明している。「重ね合せにより取るに足らない特徴も意味深い複雑さに置き換えられる。……重ね合せによる透明感は、物質の表面に現れない構造を表面化しながら背景の透明性をも暗示する」。彼はまたジェームズ・ジョイスが得意とする語呂合わせを 「多重言語謬着」 と名付け、更にこれは 「透明性を巧妙に駆使することにより完璧を期そうとする実践的な課題に対する答え」 であると述べている。言い換えれば、モホリは歪曲、再編、および掛け言葉というプロセスを経ることによって言語学上の透明性――すなわちケペッシュのいわゆる 「視覚的な断絶のない相互貫入」 に当たるもの――が生まれるということと、ジョイス的な 「言語謬着」 に出会った人は、ひとつの言葉の裏側にもう一つの意味を探る喜びを味わうことになるという事実に気付いていたように思われる。
- コーリン・ロウ 「透明性 ――虚と実」 (『マニエリスムと近代建築』 収録) より

このまとめの後、「透明性」 を実 (リテラル) と虚 (フェノメナル) に分類し、セザンヌを取っ掛かりにパブロ・ピカソとジョルジュ・ブラック、ロベール・ドローネーとファン・グリス、モホリ=ナジ・ラースローとフェルナン・レジェといったキュビスト、ポスト・キュビストの作品を二組ずつ取り上げて分析し、リテラルな透明性とフェノメナルな透明性に分類していく。
この辺りのことについてはフェルナン・レジェのエントリで軽くまとめたので興味のある方はそちらを参考にして頂きたいが、そこでは省略した、モホリ=ナジは 「透明性」 には虚と実という二つの面があるということに気が付いていたにもかかわらず、自身の作品にはフェノメナルな透明性が存在しないが、それはどういうことなのかという点について論じた部分について、以下に引用しておきたい。

というのも、モホリの絵画には近代的なモチーフが使われているにもかかわらず、キュービズム以前の伝統的な前景・近景・遠景が依然として存在しているからだ。そしてモホリの絵の中には奥行きのある空間のロジックを打ちこわすべく様々な面や奥行を示す要素が気まぐれに投げこまれているものの、一目見ただけですべてを理解できてしまうのである。
- コーリン・ロウ 「透明性 ――虚と実」 (『マニエリスムと近代建築』 収録) より

ここまでの引用の仕方やまとめ方から、 「透明性 ――虚と実」 の内容全体をリテラルな透明性とフェノメナルな透明性の優劣について論じている論文だと受け取ってしまわれる方がいるかもしれないが、そうではなく、「透明性」 の一語で語られているものが、実際には、物理的に知覚できるリテラルな透明性と構造や空間の中に立ち現れる現象を知覚することで見えてくるフェノメナルな透明性に分かれているという新たな分類を導入することで、元々違っているものを同一に見てしまうことで生じる混乱を解消できますよ、というのがこの論文の主題なので (多分)、あまり優劣の問題として捉えない方がいいだろうし、興味を持った方やこのまとめが腑に落ちなかった方は 『マニエリスムと近代建築』 を手にとって一読することをお薦めする。


ポストしたのは、

"Behind God" (1925)
"Dolly Sisters" (1925)
"Love Your Neighbor" (1925)
"Structure of the World" (c.1925)
"Jealousy" (1927)
"The Broken Marriage" (1925)
"Nue Negatif" c.1933)
"Akt #59" (c.1935)
"Kinder" (c.1931)
"Perspective" (c.1929)

の10点。


moholy-nagy.org: The Moholy-Nagy Foundation
Wikipedia
Laszlo Moholy-Nagy - WikiPaintings.org
MoMA | The Collection | László Moholy-Nagy. (American, born Hungary. 1895–1946)
George Eastman House Laszlo Moholy-Nagy Series
J. Paul Getty Museum
Eastman House Museum of Photography & Film
Andrea Rosen Gallery - László Moholy-Nagy - Biography
Exhibition: ‘László Moholy-Nagy 
Retrospective’ at Schirn Kunsthalle, Frankfurt « Art Blart
Tate Papers - Replicas and Reconstructions in Twentieth-Century Art
Moholy-Nagy, László: Female Nude: Negative and Po : Lot 4415
Ueno: New Bauhaus

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